女優の大竹しのぶさんが、過去に明石家さんまさんと結婚していたことは有名です。
ただ、明石家さんまさんの前にも服部晴治さんという男性との結婚歴があり、1人の息子(二千翔さん)が産まれていました。
今回は、大竹しのぶさんの元旦那で息子・二千翔さんの父親の服部晴治さんについて、
- 顔画像や職業などプロフィール情報
- 略奪婚疑惑の真相
- 死因の病気の詳細
など、気になる情報をお届けしていきます。
大竹しのぶの元旦那・服部晴治のwikiプロフィール
大竹しのぶさんの元旦那は、服部晴治さんという人物です。
顔画像やwikipedia風プロフィール情報はこちら。
- 名前:服部晴治(はっとり せいじ)
- 生年月日:1940年?月?日
- 没日:1987年7月?日(享年47歳)
- 出身地:不明
- 職業:TBSディレクター
服部晴治さんは、TBS所属のディレクターでした。
年齢は大竹しのぶさんの17歳年上。
会社員ということで、出身地や出身大学など学歴に関する情報等は一切公開されていません。
大竹しのぶと元旦那・服部晴治の馴れ初めは略奪婚?
服部晴治さんは、大竹しのぶさんと結婚するまでに離婚歴が2回あり、3回目の結婚でした。
1人目の嫁はミッションスクールの英語教師で、2人目の元嫁は宝石デザイナーだったそう。かなりモテる男性だったようです。
大竹しのぶさんとの結婚についても、実は略奪婚だったのとのこと…
ここでは、大竹しのぶさんと服部晴治さんの出会いや馴れ初めを詳しく見ていきたいと思います。
大竹しのぶと元旦那・服部晴治の馴れ初め
大竹しのぶさんと服部晴治さんの出会いは、仕事現場でした。
距離が縮まったきっかけは1980年に放送されたドラマ「恋人たち」。
立原正秋さんの同名小説を原作とした作品で、主役に根津甚八さん、母親役に田中裕子さん、恋敵にいしだあゆみさん、というキャストでした。
大竹しのぶさんはヒロインとして出演し、服部晴治さんはドラマ演出を担当。
(劇中の大竹しのぶさんと根津甚八さんのショット)
服部晴治さんは、大竹しのぶさんを女優として尊敬しており、演技について深く語り合うなど、作品をさらに良くしようと熱心だったようです。
お二人には17歳の年齢差がありましたが、大竹しのぶさんの方が服部晴治さんに惚れていたようで、撮影現場では大竹しのぶさんが服部晴治さんと寄り添うように佇んでいる様子が目撃されていました。
ドラマを作り上げていく過程で距離を縮めたお二人は、いつしか恋人同士になりました。
その後、1982年に結婚を発表。
結婚から3年が経った1985年に長男の二千翔(にちか)さんが産まれました。
大竹しのぶと元旦那・服部晴治は略奪婚だった?
ドラマでの関わりをきっかけに交際をスタートさせゴールインした大竹しのぶさんと服部晴治さん。
ただ、服部晴治さんは当時歌手の中村晃子さんと交際していました。
二股交際をしていた服部晴治さん。彼女の中村晃子さんは大竹しのぶさんとの仲を怪しんでいました。
ある日、中村晃子さんは服部晴治さんの車を尾行。すると、服部晴治さんは大竹しのぶさんを車に乗せて走り出すと、交差点でキス。
中村晃子さんは話し合いをする中で大竹しのぶさんを「この泥棒猫!」と罵ったんだとか。
この略奪婚から、大竹しのぶさんには「魔性の女」のイメージが定着していきました。
大竹しのぶの元旦那・服部晴治の死因は病気?
1982年に結婚し、1985年に第一子が産まれた大竹しのぶさんと服部晴治さんでしたが、結婚生活は圧倒いうまに終わりを迎えてしまいました。
結婚から5年後に服部晴治が死去
服部晴治さんは、結婚から5年後の1987年7月に亡くなりました。
死因はがん性腹膜炎。
胃がんが進行しがん細胞が飛び散り、腹部に水が溜まった状態となっていたのです。
服部晴治さんは病気が発覚した時には、すでに手遅れの状態でした。
大竹しのぶさんは医師から夫の余命が1年だと告げられ、迷いましたが服部晴治さんご本人には真実を伏せて、何回病状を聞かれても誤魔化していたんだとか。
服部晴治さんは47歳の若さで亡くなり、葬儀は1987年7月25日に勤務先であるTBS緑山スタジオで行われました。
喪主挨拶をした当時の大竹の映像が流れ、大竹は「5年でいっちゃったけど、私は10年分も20年分も、もっともっと愛されていました。今は『ありがとう』っていう言葉を晴治さんに言いました」と気丈に振る舞っていた。
引用:デイリー
大竹しのぶへの最後のプレゼント
2017年10月20日放送された「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」に出演した大竹しのぶさんは、服部晴治さんが亡くなる前にサプライズでプレゼントをしてくれていたことを明かしています。
大竹は「ちょうど私が誕生日。亡くなる1週間前だった」と記憶をたどった。服部さんは酸素マスクを付けながらも「引き出しを開けて」と病室で大竹に告げた。
そこにあったのは大竹の30歳の誕生日を祝福するプレゼントのペンダントだった。服部さんは「自分で買いに行けなくて。めいっ子に頼んだんだけど」と言ったという。大竹は「心電図も付けて、酸素マスクも付けている状態で誕生日のその日に『引き出しを開けて』って用意してくれている。優しさと愛を最後まで見せてくれた」と、しみじみと述べた。
引用:デイリー
服部晴治さんは、病名こそ告げられていなかったものの、ご自身の最期を感じ取っていたのかもしれませんね。
さらに、服部晴治さんは大竹しのぶさんの後の夫となる明石家さんまさんにも“あるもの”を遺していました。
明石家さんまへの手紙
実は、服部晴治さんは明石家さんまさんと古くからの仲でした。
一緒にテニスを楽しむなど遊び仲間として親しくしており、大竹しのぶさんと結婚した後にも家族ぐるみのお付き合いがあったそう。
服部晴治さんは亡くなる2ヶ月前、明石家さんまさんに向けて手紙を書いていました。
手紙には、「僕が遊ぶことができない分、しのぶのことを頼みます」という趣旨の内容が綴られていたんだとか。
その後、大竹しのぶさんと明石家さんまさんは服部晴治さんの死から1年2ヶ月後の1988年9月に入籍しました。
大竹しのぶさんは、服部晴治さんが明石家さんまさんに宛てた手紙の存在は知らず、離婚後にその事実を知ったそう。中身は読んでいないとのことです。
明石家さんまさんが大竹しのぶさんとの結婚を選択したのは、男の友情、約束を果たすためだったのかもしれませんね。